いつまでたっても。
ワタクシ、収納下手です(^^ゞ
片付けれないというより、捨てれない人間なんです。
自分のものはサッサと捨てることができます。例えば、疲れてきた洋服やお気に入りだけどキズが入ってしまったコップ。高価だったけど、使わなくなってしまった雑貨類。自分のために買った旅行先での思い出の品など。
自分が買ったものに未練はないのですが、子供が修学旅行先で買ってきてくれたコップやお友達が作ってくれた陶芸でヒビを入れてしまい使えなくなった陶器など。もう、そこには値段とか利用価値とか関係なく捨てることができません。子供が幼い時に贈ってくれた絵を書いたウチワなどは、人から「写真を撮影して、モノは捨てればいいのに。」と涼しい顔をされて諭されますが、頑固な私は聞く耳持たずです(笑
私はそんなモノたちを心の財産だと思っているので、愛おしく感じますし、それを見ることで元気をもらったりします。逆にどんな有名な作家が書いた本でも、例え人生のヒントを得た!と思う本であっても、捨てることに躊躇はありません。だって、その本はヒントをたくさん得たとしても私だけに向けてかかれたモノではないですから。
お料理の味もそれが基準になります。どれだけ美味しいプロの料理人のお味も「美味しいな。」「さすがプロ!」と思うけど、子供が焼いてくれたちょっとコゲっぽいクッキーの味の方がクッキーを食べるたびに思い起こされます。どんなに美味しいお寿司も、ちょっと酸っぱめの義母の作ってくれる五目寿司の味をお寿司をたべるたびに思い出します。
なので、モノに溢れて生活しているのは「心豊かなこと」と、心底思っています。それでもある時、それぐらい大切なものってどれぐらいあるだろう?と片付けていたら、ダンボール1箱分ぐらいしかありませんでした(^^ゞ逆にそれ以外はすぐに捨てても心残りはないし、惜しいとも思わないものばかりだったのですね。
例えば、子供のランドセルなどは子供にとっては思い出深い品だから子供の目からすれば捨てれない品に当てはまるかもしれませんが、私の思い出としては薄いものなので処分しても後悔しないけど、母の日にくれたスリッパなどはくたびれきってしまう寸前で使うのをやめて、大切に下駄箱にお取り置きします。
自分のために誰かが選んでくれたものは、心から「有難い宝だな」と思うし、そうゆうことを大切に感じてくれる人のもとに当店のガラスたちも身を置かせていただいているのだろうな、っと思いを馳せたりすることがあります。贈り物をいただいたり、贈ったりする数に比例して幸せになれるとは思っていないけど、ガラスギフトで人の絆が強くなればいいなと思っている私は、いつまでたっても捨てれない人でいいと思ったりするのです(^^ゞ
自分のものはサッサと捨てることができます。例えば、疲れてきた洋服やお気に入りだけどキズが入ってしまったコップ。高価だったけど、使わなくなってしまった雑貨類。自分のために買った旅行先での思い出の品など。
自分が買ったものに未練はないのですが、子供が修学旅行先で買ってきてくれたコップやお友達が作ってくれた陶芸でヒビを入れてしまい使えなくなった陶器など。もう、そこには値段とか利用価値とか関係なく捨てることができません。子供が幼い時に贈ってくれた絵を書いたウチワなどは、人から「写真を撮影して、モノは捨てればいいのに。」と涼しい顔をされて諭されますが、頑固な私は聞く耳持たずです(笑
私はそんなモノたちを心の財産だと思っているので、愛おしく感じますし、それを見ることで元気をもらったりします。逆にどんな有名な作家が書いた本でも、例え人生のヒントを得た!と思う本であっても、捨てることに躊躇はありません。だって、その本はヒントをたくさん得たとしても私だけに向けてかかれたモノではないですから。
お料理の味もそれが基準になります。どれだけ美味しいプロの料理人のお味も「美味しいな。」「さすがプロ!」と思うけど、子供が焼いてくれたちょっとコゲっぽいクッキーの味の方がクッキーを食べるたびに思い起こされます。どんなに美味しいお寿司も、ちょっと酸っぱめの義母の作ってくれる五目寿司の味をお寿司をたべるたびに思い出します。
なので、モノに溢れて生活しているのは「心豊かなこと」と、心底思っています。それでもある時、それぐらい大切なものってどれぐらいあるだろう?と片付けていたら、ダンボール1箱分ぐらいしかありませんでした(^^ゞ逆にそれ以外はすぐに捨てても心残りはないし、惜しいとも思わないものばかりだったのですね。
例えば、子供のランドセルなどは子供にとっては思い出深い品だから子供の目からすれば捨てれない品に当てはまるかもしれませんが、私の思い出としては薄いものなので処分しても後悔しないけど、母の日にくれたスリッパなどはくたびれきってしまう寸前で使うのをやめて、大切に下駄箱にお取り置きします。
自分のために誰かが選んでくれたものは、心から「有難い宝だな」と思うし、そうゆうことを大切に感じてくれる人のもとに当店のガラスたちも身を置かせていただいているのだろうな、っと思いを馳せたりすることがあります。贈り物をいただいたり、贈ったりする数に比例して幸せになれるとは思っていないけど、ガラスギフトで人の絆が強くなればいいなと思っている私は、いつまでたっても捨てれない人でいいと思ったりするのです(^^ゞ

鏡が左右対象に映ることは、日常生活をする上においても当たり前に知られていることで、これは左右ではなく「手前と奥」を逆転させているだけのことなのですよね。ガラス越しだと、左右だけでなく上下も逆さまで本当に真逆になります。中学校の時に習った、一点を中心にして等距離が逆になるということです。
時として、人も気持ちを「本音と建前」で真逆のことを云う時があります。親子関係において 小さな子供が「お母さんなんか、大嫌い!」と言ったりします。これは本音でもなく、建前でもなく本心なわけですが ここには絶対的な信頼感があっての言葉なのですよね。だから、恋人同士のケンカや夫婦の口喧嘩も信頼感があれば、「嫌い」も「大好き」と同義語になるわけです。
日本人は「本音と建前」を使い分けることが得意な民族です。全く正反対とまでいかなくても「つまらないものですが」と言って、一生懸命選んだ贈り物を手渡したり、大切な奥様や子供のことを「愚妻」や「愚息」と呼んだり、美味しく吟味されたご馳走を前に「何もございませんが、」と言ったり。
謙虚な姿を美徳とする精神は、集団で目立つことにより孤立することを避ける昔ながらの知恵です。謙虚な心は素晴らしいことですが、あまり卑下してしまうと場が悪くなることもありますよね。なので、贈り物のお熨斗に「寸志」や「粗品」を選ぶより「感謝」や「記念」「御礼」が相応しいでしょう。
お祝いの贈り物を贈る気持ちも、「おめでたいことを一緒に喜びたい。」という素直な気持ちが大切ですよね。「遠縁かな。」や「時が経ち過ぎているかも。」などとためらう気持ちは謙虚というより卑下に近いかもしれません。
だれでも お祝いしていただくことは嬉しいことです。「おめでとう」「ありがとう」の言葉は心を和やかにします。贈り物をしようと考える時「いまさらお祝いを贈っても」という気持ちが湧いてくることがあるかもしれません。それでも「遅くなったけど、」と一言添えて贈ると「お祝いしようか、どうしようかな。」と悩んでいた気持ちがウソのごとく晴れるというものです。
早くお祝いを贈らなければと思えば思うほど、遅くなってしまうのもまた日本人の奥ゆかしいところ。ガラスに映し出された心と同じで全く逆のことをしてしまっています。それでも贈り物を贈ることで、何らかの関係の絆を紡いておきたいのがオトナのお付き合いというもの。「お祝いの日は過ぎちゃったけど 一緒に喜びたいな。」と思い当たることはありませんか?オリジナルギフトで一発逆転ホームランです(^^ゞ






